8 2021

芸術と文化が日常に溶け込む味わい深い街

|高円寺|阿佐ヶ谷|荻窪|

コラム

この街の今、昔

posted by 日経REVIVE

今こそ振り返りたい、あの頃のトーキョー
この街の今、昔

高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪の物語編

posted by 日経REVIVE

2021年07月25日

高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪の物語編 - 今こそ振り返りたい、あの頃のトーキョーこの街の今、昔

文士たちが集った武蔵野の中心

 高円寺、阿佐ケ谷、荻窪は1891年(明治24年)に甲武鉄道(現在のJR東日本)の荻窪駅ができたことから移り住む人たちが増えた地域だ。かつては武蔵野と呼ばれた東京の郊外の一部で、雑木林の広がる美しい田園地帯だった。この地域が急速に発展し始めるのは、1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅的な被害を受けた下町の住人が移り住んだことからだった。人口が増えたことから1932年(昭和7年)に杉並区が誕生した。

 そんな移住した人たちの中に、作家の井伏鱒二がいた。井伏の「荻窪風土記」にはこうある。

〈新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移って行く。(中略)関東大震災がきっかけで、東京も広くなっていると思うようになった。〉

 井伏は1927年(昭和2年)から晩年まで荻窪で暮らした。井伏に弟子入りした太宰治も荻窪に移住。将棋好きだった井伏が将棋会を開催したことから、井伏を中心とした文士たちの「阿佐ケ谷将棋会」と呼ばれる親睦会が生まれた。会合は主に井伏が通っていた阿佐ケ谷駅前にあった中華料理店「ピノチオ」で行われ、毎夜のように将棋を指し、酒を酌み交わして、文学について語り合ったという。

 この地域にはほかにも与謝野鉄幹・晶子夫妻や北原白秋、プロレタリア文学の小林多喜二ら、日本文学史に名を刻むそうそうたる文士たちが暮らしていた。

高円寺でなぜ阿波おどりが?

話は変わって、東京の夏の風物詩ともなった高円寺の阿波おどり。徳島県の阿波おどりがなぜ高円寺で行われるようになったのか?

 そのきっかけは隣町の阿佐ケ谷で開かれていた七夕祭りだった。人気のイベントで、地元の商店街に大きな売り上げをもたらしていたことから、高円寺でもなにかできないかと商店街の青年部が考えたのが阿波おどりだった。ところが阿波おどりの経験者も見た人もいない。そこで名称も「高円寺ばか踊り」として、おはやしはチンドン屋さんに頼み、おどりも「佐渡おけさ」と阿波おどりとはまったく違うものだった。

 1963年(昭和38年)に正式に「東京高円寺阿波おどり」と名称を変更。踊り手が徳島に“阿波おどり留学”をしたり、努力を重ねて徐々に本物に近づいていった。

 現在では約100万人の観客を動員する大イベントに成長している。

参考文献:「荻窪風土記」(新潮文庫)、「とことん深みにハマりたい。荻窪・西荻・阿佐ケ谷本」(枻出版社)、WEB:「すぎなみ学倶楽部」、「東京高円寺阿波おどり振興協会」

関連記事