異国の面影を探したくなる町
|横浜|
コラム
この街の今、昔
posted by 日経REVIVE
今こそ振り返りたい、あの頃のヨコハマ
この街の今、昔
本牧と元町編
posted by 日経REVIVE
2021年12月12日
フェンスの向こうには
アメリカがあった街
本牧はかつて駐留米軍の住宅があったところで、戦後間もない頃から1982年に土地が返還されるまでの間、フェンスの向こうには、アメリカがあった。今回高島さんが訪れた「ムーンアイズ エリア1」の「エリア1」とは、当時本牧通りを挟んで海側の一帯をそう呼んでいた名残で、埋め立てられる以前は実際に海が目の前にあるビーチサイドだった。
戦後まだ日本が貧しかった頃、フェンスを隔てて垣間見えるアメリカ人の生活は、緑の芝生にコロニアル風の住宅がとても豊かに映り、当時の日本人は憧れを持って見ていた。
米軍兵士相手の店もオープンした。今も残る「ゴールデンカップ」などのライブハウスも人気を博した。このライブハウスから、グループサウンズ時代に人気だった「ザ・ゴールデン・カップス」や、まだ無名時代の矢沢永吉など、音楽史に残る逸材が輩出された。
「クレージーケンバンド」のボーカル・横山剣も本牧をベースに活動を続けている。
山手の坂を上ると
日本の中の外国だった街
本牧が米軍住宅だとすると、元町は外国人居留地の足元で発展した街だ。1867年(慶応3年)に幕府が山手に居留地を造ると、山手から坂を下った所にある元町には、日常的に外国人が多く訪れるようになる。その外国人相手の店が開かれるようになり、元町はハイカラな町になった。
その後居留地は廃止され、外国人たちは東京などに分散すると、元町は以前の輝きを失ったかに見えた。その輝きが復活したのは、戦後米軍が横浜に進駐して、基地や住宅を造ってからだ。もともと外国人相手のビジネスに慣れていた元町には、米兵とその家族たちが大勢訪れるようになり、元町は以前の活気を取り戻した。
当時の盛況を物語る、こんな話がある。元町ショッピングストリートは一方通行だが、かつては対面通行だった。アメリカ人たちが大きな車に乗ってきて大渋滞が起きたために、進駐軍の命令で一方通行に変わったのだとか。
アメリカ人の車で大渋滞する元町ショッピングストリート。
1955年からおよそ10年をかけて、商店街の建物をセットバックして、道幅を広げた。
参考文献:WEBサイト/「本牧グラフィティ」、「みんなでつくる横濱写真アルバム」、「はまれぽ.com」、「横浜元町ショッピングストリート」