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コラム
この街の今、昔
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この街の今、昔
歌舞伎座の130年物語編
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2021年10月31日
歌舞伎座は木挽座だったかもしれない?
歌舞伎座が誕生したのは明治22年(1889年)で、大日本帝国憲法の発布された年だった。ジャーナリストであり政治家でもあった福地桜痴を中心に生まれた、歌舞伎の近代化を目指す「演劇改良運動」の一環としての誕生だった。そもそも歌舞伎座と呼ばれる前は「改良座」と称していた。いつ誰が「歌舞伎座」と改称したのか、明らかになっていないが、歌舞伎座という名前は異例だった。歌舞伎を行う芝居小屋は、江戸以来の流れをくむ新富座、市村座、中村座など、興行主や劇場のある地名を冠するものだったからだ。
歌舞伎座のある土地は木挽町(旧町名)なので、木挽座と名乗っていたかもしれない。初代歌舞伎座は曲折はあったものの、九世市川團十郎や五世尾上菊五郎、初世市川左團次らの名優が舞台に立ち、「團菊左」の黄金時代とともに人気を博した。
明治44年(1911年)に西洋式の演劇劇場として帝国劇場が誕生したのに対抗するため、歌舞伎座は純和風に改築された(第2期)。
現在の第5期まで受け継がれた和風デザイン
関西の劇場を次々に傘下に収め東京へ進出していた松竹は、大正3年(1914年)に歌舞伎座も直営とする。現在に続く新たな歴史を歩み始めた。
ところが第2期の歌舞伎座は、大正10年(1921年)に漏電により焼失。関東大震災による工事の中断を挟んで、大正14年(1925年)に、第3期の歌舞伎座が誕生。奈良朝と桃山様式を折衷させた優雅な建築だったが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で再び焼失。昭和26年(1951年)に再建された第4期歌舞伎座は、第3期の外観などを可能な限り活用。観客席約2000の大劇場となり、戦後の歌舞伎界を支える一大拠点となった。
第4期も老朽化により、2013年に新国立競技場で知られる隈研吾氏デザインの第5期歌舞伎座が開場。劇場部分とオフィスタワーを合築したモダニズム建築と和風建築の融合が面白い。
初代の歌舞伎座は写真の通り洋風の外観だった。和風となるのは第2期から。特徴的な唐破風は今に引き継がれ、銀座のシンボルとして鎮座している。
参考文献:「歌舞伎座誕生 團十郎と菊五郎と稀代の大興行師たち」(朝日文庫)、「私の『歌舞伎座』ものがたり」(朝日新書)、「歌舞伎座を彩った名優たち」(雄山閣)
参考WEB:「松竹株式会社 歌舞伎座の歴史」